八幡西区の(旧) 長崎街道を歩く(木屋瀬~黒崎宿) 2012年3月

道路埋め込み標識  管理人が住む北九州市八幡西区には長崎街道が通っていました。長崎街道は最近ウォーキングを行う際に部分的に歩いたりしていましたが、ちゃんと黒崎宿と木屋瀬宿の間(約14Km)を歩いたことはありませんでしたので、一度歩いてみようと思い2日に分けて実行しました。 

 江戸時代、五街道と脇街道があり、長崎街道は九州唯一の脇街道でした。57里(約240㎞)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の各宿は筑前六宿と呼ばれ、大変なにぎわいを見せたそうです。

 長崎街道は、当時鎖国体制の日本で唯一外国との文化交流や通商の窓口の長崎から西洋の文化や新しい技術などを国内に伝える文明の道として重要な役割をはたしていました。参勤交代の大名や長崎奉行だけでなく伊能忠敬、シーボルトのほか、象や孔雀などの動物もこの長崎街道を通ったそうです。
長崎街道
第1日目 3月15日(木)
今日は自宅から筑豊電鉄の最寄りの駅まで車で送ってもらい、木屋瀬迄電車で行き、そこから西に歩いて遠賀川の中島橋へ出ました。中島橋から左折して輿玉神社へ向かいました。輿玉神社からは沿線の史跡等を訪ねながら黒崎宿方面に向かうことにしました。
木屋瀬駅 木屋瀬は、遠賀川のほとりにありますので、水運の中心地でもありました。多くの寺を創建した鎮西上人は、穂波郡の明星寺(現在飯塚市)を再興しましたが、その際、水運に便利なこの付近に木屋をかけて、寄付された木材を保管したのが、木屋瀬の由来であると伝えられています。


筑豊電鉄木屋瀬駅です。
遠賀川 輿玉神社横から遠賀川に架かる中島橋方面を望む
大銀杏 輿玉神社傍の大銀杏。
木屋瀬宿 木屋瀬宿場跡について
木屋瀬宿は筑前六宿の一つで、赤間道と飯塚道へと向かう追分の宿として栄えました。宿場の門である東構口(黒崎口)と西構口(飯塚口)が設けられました。両構口に囲まれた宿場には本陣、脇本陣などの設備を完備していました。
輿玉神社 輿玉神社(猿田彦神社)
旅の安全を守る猿田彦神がまつられ、正徳5年(1715)創建。また輿という字が沖の読みにも通じることから、遠賀川水運の安全を祈ったともいわれている。
追分道標 追分道標
長崎街道と赤間道との分岐点を示す道標で、本物は長崎街道木屋瀬記念館にあり、現地にあるものは複製のものだそうです。
西構口跡 西構口跡
木屋瀬宿の出入り口に設けられ、道の両側に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築いたもの。方位に関わらず、上りの方角を東、下りの方角を西として、宿の両端にある構口を区別している。

西構口跡には、当時の石組みが残され、市内に残る構口の遺例として市指定文化財(史跡)となっている。
村庄屋跡(松尾家) 村庄屋跡(松尾家)
木屋瀬宿には村全体を統括する村庄屋、旅籠など宿内を管理する宿庄屋、川船を管理する船庄屋の三つがあった。
松尾家は問屋場の人馬支配役となったた後、安政5年(1858)木屋瀬村庄屋を務めた。また、明治に入ると、木屋瀬村戸長も命じられている。
旧高崎家住宅 旧高崎家住宅(伊馬春部生家)
江戸自時代末期の大きな商家の代表的な宿場建築として修復され、現在一般公開している。高崎家は、かつて板場と呼ばれる絞蝋業を、明治には醤油醸造業を営んでいた。

「向こう三軒両隣り」などで有名な放送作家・伊馬春部の生家です。
愛宕山護国院 愛宕山護国院
1493年香月にある聖福寺の末寺として創建されました。当時、火災が頻発し悪疫が流行しましたが、この寺の祈願により治まったといわれています。
船庄屋跡 船庄屋跡(梅本家)
江戸時代、木屋瀬での年貢米輸送は、権利をもった24艘の本場(米場)の川ひらた(川舟)に限られていた。この24艘の管理が船庄屋の仕事で、後期には中村弥平次から梅本弥七郎に交代している。当時は油屋と号し、酒醸造を、明治に入り醤油醸造を営んでいた。
代官所跡 代官所跡
年貢の取立てと、国継を行うため代官・下代(3~5名)が常勤していました。この路地は、地元では「代官小路」と呼ばれています。
長徳寺 長徳寺
浄土宗の寺。慶応2年(1866)小倉藩騒動のとき、佐賀藩の宿陣となった。安元元年(1175)頃は天台宗の寺であったが、聖光(鎮西)上人の寄寓の縁で、嘉禎元年(1235)浄土宗の寺になった。木屋瀬の中で最も古い寺と言われています。
こやのせ座 こやのせ座
芝居小屋の外観を持つ多目的ホールです。かつて木屋瀬には大正座と呼ばれた芝居小屋がありました。それを模して、このホールは建てられています。
みちの郷土資料館 みちの郷土資料館
歴史と人の交流の場。歴史への旅体験をテーマとして各種の資料を展示しています。大人も子供も郷土の歴史を楽しく学ぶことが出来ます。江戸時代から明治・大正・昭和にわたって、街道と宿場、当時の暮らし、炭鉱、木屋瀬に密着した文化を体験しながら見ることが出来ます。

ご利用案内
9時00分~17時30分(入館は17時00分まで)

休館日
月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、
年末年始(12月29日~1月3日)

入館料
一般    200円
高校生  100円
小中校生  50円
問屋場跡 問屋場跡(野口家)
人馬継や飛脚・荷物を取り扱う所で問屋前は他の所より道幅も広く、水害対策として建物も宿内で一番高い所にありました。
郡屋(家)跡 群屋(家)跡
郡内の村役人と藩の役人の集会所として使われ、大名などの通行の人馬割当、年貢の調整、普請の打ち合わせなどを相談しました。
もやいの家 もやいの家
長崎街道木屋瀬宿記念館の先、右手にもやいの家があります。かっては、呉服店であったようで、屋内には京都の問屋からの豪華な看板が掲げられています。現在は展示場になっています。

町並み資料館として屋内が公開された井上家では、鉄山役所と刻まれた算盤や、明治・大正時代の井上家が営んでいた質屋の帳簿が展示されています。
須賀神社 須賀神社
江戸時代まで祇園社と称した。7月の木屋瀬祇園宿場祭は、この社で古くからおこなわれてきた祇園祭である。永享年間(1429~1441)に勧請され、その後乱世によって荒廃したが、寛永2年(1625)に豪商伊藤宗伯が再建したといわれている。
永源寺 永源寺
もとは金剛にありましたが、1523年当地に移りました。本尊の聖観音立像は市指定文化財に指定されており、本陣門がここで保存されています。
扇天満宮 扇天満宮
室町時代応仁の乱後、大内政弘を頼って京から下った連歌師宗祇が、1480(文明12)年の筑紫紀行の際、木屋瀬に泊まりました。その夜、天神と名乗る男から扇をもらう夢を見ました。その後、大宰府で実際に扇をもらったことから、扇天満宮の名が付けられたといわれています。
東構口跡 東構口跡
木屋瀬宿の出入り口であった構口は、岡森用水路の直ぐ傍にありました。西構口と同様の構造で石積みの上に瓦葺きの土塀がありました。
茶の原一里塚跡 茶屋の原の一里塚

 一里塚は、街道の両側に1里(通常約4Km)毎に設けられた塚です。戦国時代の末期に既に存在していましたが、本格的に整備されたのは、慶長9年(1604)二代将軍徳川秀忠のときからです。
一里塚の上には榎、松などが植えられ、江戸日本橋から全国への里程(道程)を旅人に知らせる目印となりました。
 小倉から長崎までの長崎街道にも一里塚が設けられ、八幡西区内には幸神、小嶺、茶屋の原、六本松(旧木屋瀬村外れ)にありました。小嶺、茶屋の原の間は一里に満たず、六合道と呼ばれていました。これはアケさか、石坂など険しい道があったことを配慮したものと思われます。古老の話では、この一里塚には松と椎の木が植えられていたといわれています。この「一里塚跡」の石碑は、昭和57年に郷土会によって建てられたものです。
大日堂 大日堂。
石坂  長崎街道の道中でも難所と言われていた石坂の急坂は銀杏屋の直ぐそばにあります。諸大名も籠から降りて歩いたと云われています。
 江戸時代、この地は長崎街道の黒崎宿と木屋瀬間にある難所でした。この画像の下石坂からの道は現在階段になっていますが、急坂が残っています。
 黒崎方面の地形は、現在その面影を知ることもできませんが、かつては小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、更には「中の谷」の谷底から上石坂の急坂を登るという難所でした。このため大名でさえも駕籠を降りて歩いたといわれています。
 この石坂の頂上には、諸大名や長崎奉行などが休憩した「立場茶屋銀杏屋」があり、その周辺には茶店などがありました。
銀杏屋 銀杏屋
立場茶屋銀杏屋は平成八年に市文化財に指定されています。 諸大名や長崎奉行などの休憩所です。

所在地   八幡西区石坂一丁目4番6号
開館時間  10時~16時30分
休館日
月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、その翌日が休館)、休日の翌日
小嶺一里塚 小嶺一里塚(所在:八幡西区小嶺1丁目3番国道211号線横)
一里塚は街道の両側に一里毎に設けられた塚で、江戸時代には旅人には距離の目安となりました。塚には榎などを植えた所もありますが、ここの塚は両側とも松が植えてありました。ここの一里は36町です。1町は60間です。長崎街道の北の次の一里塚は幸神にありました。南のそれは茶屋の原です。後者は途中アケ坂、石坂といった急坂が考慮されているのか距離は一里ありません。五街道の一里塚の起点は江戸日本橋を起点としていましたが、長崎街道の一里塚は。豊前大里に始まります。
お地蔵様 お地蔵様
第2日目3月17日(土)
昨日はお天気が悪く、今日は次第にお天気は持ち直すとのことで、9時頃から前回の続きを黒崎宿を目指して歩きました。
えびす神社 蛭子(えびす)神社
涼天満宮 涼天満宮
境内にあった大松の下で旅人が涼んで休憩したことから「すずみ」の名がついたといわれています。言い伝えでは、昔この松に荷物をかけたまま立ち去り、後でこれに気づき、すぐ立ち寄るとそのまま残っていたということです。
やから様 やから様(上上津役三丁目1番) 源平史蹟。

 寿永2年(1183年)木曽義仲に京都を追われて、安徳天皇を奉じて大宰府に落ちた平家一門が豊後の緒方三郎に敗れて落ちた中に、8月19日夜、夜久(上津役)通りかかった二人連れの女がいました。一人は気品高く一人は乳母らしく乳児を抱いていたが疲れ果てて、今は一歩も進むことが出来ず、道脇の谷間に降りて野宿をした。
その頃平家の落人を追って郎党50騎を従えここを通りかかった豊後の国久住伊藤兵衛慰に乳児の鳴き声が聞こえ源氏方の武士はこの二人の女と乳児を引出して打ち取らんとした時、女は夜泣きの児を持つ母の苦労を救わんと短刀にてこの世を去った。
夜久の人たちがこの名も知れぬこの哀れな平家の女性のために冥福を祈って建てたのがこの「やから様」です。
以来夜泣きする乳児の願いをかけると治ると言伝えらています。
幸神一里塚 幸神一里塚
一里塚は、旅人の目安として一里毎に設けられた塚で、松などの木が街道の両側に植えられていました。
幸神神社 幸神神社
現在の松並木のはずれにある。「さいの神様」には道祖神と猿田彦が同時にまつられています。
曲里松並木 曲里の松並木
天下統一後、江戸幕府は交通政策に力を入れ、全国の街道整備を進めました。その街道の約310mの松並木は今も当時の面影を残しています。
曲里松並木入口
黒崎宿 黒崎宿の概要です。

黒崎宿は、かつて長崎街道東端の宿駅として江戸時代には福岡と小倉両藩の境界にあり、福岡藩では唯一の上方への渡海船(乗合貨客船)が発着する港を持つ宿場町でした。 宿内には、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋(脇本陣)が設けられていました。また、宿駅の機関である人馬継所、行政上の施設である制札場、関番所、郡家、代官所などが完備され、一般の旅籠屋(旅館)や商店も軒を並べていました。

 この「黒崎の宿」は、今の東構口跡(八幡西区田町2丁目)から黒崎駅前の商店街(藤田銀店街~熊手通り商店街・写真右)を抜け、西構口跡(熊手2丁目)の間にありました。

  構口とは、宿場の出入り口のことで、役人が昼夜交代で詰め、行旅の監視をしていました。
岡田神社 岡田神社
1604年頃、元の山寺町から当地に移されました。古事記にも記載されている神社です。

1194年、鎌倉時代には源平の合戦で戦功を立てた麻生重業が筑前国鞍手郡・遠賀郡を領し、そのときにこの岡田神社を藤原兼直に祭らせた。
江戸時代になると長崎街道の黒崎宿が築かれ、筑前6宿の基点として大いに栄えた。福岡藩の黒田家に崇拝されるだけでなく、参勤交代で通る、九州の諸大名の信仰を集めた。

黒崎は古代から交通の要所だった。洞海湾の船着場、皇后崎(こうがさき)の津、そして陸路の大宰府官道が集まっていた。その栄えていた古代より岡田神社は力を持ち、社領18箇所と9坊を持つ大きな神社だった。
輿玉神 輿玉神(所在:八幡西区熊手2丁目1番角)
祭神は猿田彦命で、日向高千穂峰降臨の際の道案内であった
古くから街道や村境を守り、福を招く神として崇敬されていた
正覚寺 正覚寺
京都仏照寺の末寺であり、1567年に花尾山麓に建立。1627年に当地へ移りました。麻生氏、井上周防家の家臣らの墓があります。
人馬継所跡 人馬継所跡
五街道でいう問屋場で、人足や馬が常備されていたところだ。
春日神社 春日神社
1604年黒崎城が築城されたとき井上周防の命により当地に移されました。黒田長政の霊をまつり、黒田大明神として毎年祭礼を行ったといわれています。
浄蓮寺 浄蓮寺
1597年に建立され寺で、もとは穴生弘善寺の末寺といわれています。芭蕉塚、火地蔵の愛宕神社などがあります。
芭蕉塚 芭蕉塚
1694年、松尾芭蕉没後3回忌に際して建立された碑です。芭蕉に関するこのような碑は、全国に4ケ所あるといわれています。
紅梅地蔵尊 紅梅地蔵尊
寺伝によれば紅梅姫は京都の公家の娘で、花ノ尾城主麻生上総介重郷をしたい、周防国大内家の養女となり、大内家より上総介側室として花ノ尾城に入り、紅梅の局として寵愛された。
上総介の正室柏井御前の強い嫉妬による謀略讒言で、紅梅姫は上総介に疎んぜられるようになり、生きるすべを失った姫は明応4年(1495)8月14日懐剣を取り出し、自らの胸をさして自害した。
その後謀略に加担した者に事変が起こり、柏井御前も姫の亡霊に取り殺された。
また、前田・黒崎一帯では、月毛の馬に乗り大空高く飛翔する紅梅姫の姿が度々見られたという。後悔した上総介は堂宇を建立し、紅梅地蔵を祀ってからは姫の亡霊は成仏し、元の平穏な日々に戻ったという。以来霊験あらたかな女のお地蔵様として知られ、遠近より婦人の参詣も多い。
愛宕地蔵 愛宕地蔵(火除け地蔵)
岩窟にお地蔵様がおられ道哲に「我此所に居らば焼けなんとす。なんじ我を持て、汝が所に連行すべし」と告げられた。
丁度手許に小さな松があったので、松を杖代わりにしお地蔵様を背負い山を下った。延焼の恐れが無いところまで来て、お地蔵様を背から降ろそうとするがお地蔵様は背から離れようとしない。とうとう道哲の家の小高い所、現在おまつりしている場所に降ろすと、今度はやすやすと背を離れたという。
道哲は芝の庵をむすび、尊像を入れ奉り、杖としてきた松をお堂のそばに植えて後世の印とした。それ以降浄蓮寺の鎮守として現在に至っている。
寛永年中(天保年中ともいう)、黒崎に発生した大火のときには、道哲の子孫の家だけはお地蔵様のお加護により、炎症をまぬがれたという。
火除けの紙を愛宕(あたご)さまと呼ぶところから、地元では昔よりこのお地蔵様を「愛宕地蔵尊」と尊称し一切消失する火災から護って下さるようにと参詣が絶えない。
桜屋跡 桜屋跡
1800年ごろの創業と言われており、鹿児島、熊本、佐賀藩などの定宿として利用されていました。西郷隆盛や坂本竜馬なども宿泊しています。
海蔵庵 海蔵庵
田町に火災、病人が多数出たことから山寺にあった観音寺を廃止し、現在の地に海蔵庵として移転したといわれています。

さらにこの場所、江戸時代には黒崎宿の東構口(宿場の出入り口)がこの場所にあった。関所的に出入りする人たちを役人が監視していた。
東構口 東構口
宿場の出入り口のことを構口(かまえぐち)といいました。黒崎宿の東構口は海蔵庵の境内入口に名残をとどめており、西構口迄の距離は約1.1Kmありました。
常夜灯 黒崎湊の常夜灯
この常夜灯は嘉永2年(1849)に航海の安全を守る灯台として黒崎湊の入口に建立されたもので、常夜灯の基礎部には建立に力を尽くした黒崎の庄屋や船頭達の名前が刻まれています。今は消滅した黒崎湊の存在を示す貴重な歴史遺産です。
洞海湾には黒崎湊と若松湊がありました。ある時期には黒崎湊は人の運送、若松湊は貨物の運搬を分担して重要な役割を果たしていました。
その後も黒崎湊は筑前国と大坂を結ぶ乗合貨客船が発着した港として、黒崎宿の発展に貢献しました。幕末には三条実美ら五郷もこの港に上陸しました。

以前は違う場所にあったそうですが、この地に移設されたそうです。
黒崎城址 黒崎城址(道伯山)
1604年黒田長政が国境の守りのために築城した上司ですが、一国一城令により10年余りで取り壊されました。
五郷上陸地 五郷上陸地
公卿三条実美らは、1836年の政変により京都から長州、大宰府へと移りました。その際、黒崎湊に上陸した場所付近に記念碑を建てています。
黒崎湊跡 黒崎湊跡
黒崎湊は小倉湊とともに、九州では2ケ所の大阪と九州を結ぶ乗合貨物船の発着する湊でした。
九州西南藩の参勤交代の際にも利用されています。
秋月蔵屋敷跡 秋月藩蔵屋敷
秋月藩蔵屋敷は、福岡藩の支藩秋月藩が領内の年貢を一時集荷・貯蔵した場所です。元禄2年(1689)に芦屋から移されました。
東西48間(約94m)、南北20間(約39m)を福岡藩から借地しました。
ここは米蔵と藩主の別館のほか、海には波止場も設けられました。
蔵屋敷は、藩籍奉還の明治2年(1869)まで機能しました。