わが町(上上津役)
 この町に住居を構え住むようになって久しい。
本の整理をしていた山ふたすじが、足水公民館十周年記念誌「たるみ」(平成5年8月23日、足水自治区会発行)を探し出し読んでいた。
そして、今住む町内の子供会の初代会長のところに、私の名前が出ているという。
そのような本が出版されていたことは、すっかり忘れてしまっていたので私も読んで見た。
 なかの記事には、わが町の歴史や行事のことなどが書いてあり、へぇー、そうなのかと知ることが出来ることなども書いてあった。
そこで、何かの役に立つのではと思い記録に止めることにした。(以下の記事は、前述の足水公民館10周年記念誌「たるみ」からの転載です。 なお、画像は2005.01.23撮影)
           権現山                建郷山
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わが町の東側の山並み。皿倉山は権現山に隠れて見えません
足水地区(上津役)の風土と歴史         西田正文(記念誌編集委員長)
 この地区の歴史を扱う場合、足水地区とせず、上津役地区と考えたい。足水地区は、戦後の行政区画によって線引きされたものであり、明治時代の上津役村は、小嶺・下上津役・上上津役・引野・市ノ瀬・穴生を含んだ範囲の広いものであった。ここでは便宜的にその上上津役を対象とする。
 上津役地区の地形は遠賀平野を中心に眺めるとその特徴がはっきりする。遠賀平野は、西側の六ケ岳山系と東側の福智山々系に挟まれ、玄海灘に向かって扇形に広がっている。平野の中心を遠賀川が北へ流れる。この河川は、六ケ岳に端を発する犬鳴川、福智山々系の北側に位置する英彦山々系に源をもつ英彦山川の二つが合流したものである。福智山々系は、北から皿倉山(権現山・帆柱山)・建郷山・金剛山・尺岳・福智山・牛斬山へと続き、そのいずれもが西側の遠賀平野に向かって険しい角度で落ち込んでいる。上津役地区はこの山系の、権現山・建郷山の辺縁に位置する。と言うことは、上津役地区は、福智山々系から遠賀平野に落ち込んだ侵食谷の扇状地であることを示している。権現山・建郷山はそれぞれに、割子川・金山川の二つの源流を形成している。更に言えば、上津役地区は南に福智山々系を背にし、割子川・金山川に挟まれた扇状地上であることになる。
 この地形を、科学の恩恵に浴している現代人の目でなく、縄文・弥生時代の人々の立場になって眺めてみるとどうであろうか。南は山に遮られ、、東西には河川があり、土地は山に向かって傾斜し、北側にしか開けていない。容易には人を寄せ付けなかったのではないかと思える。そのためかどうか、縄文・弥生時代の遺跡がこの地区には全く認められないのである。対照的に遠賀川流域や玄海灘沿岸には、弥生時代を代表する遺跡が多数出土している。そのなかでも遠賀川式土器は考古学上の名称ですらある。また、急勾配の扇状地の保水力は乏しく、地味は豊かではない。農業、とくに稲作には決して適しているとは言えない。
中でも農業用水の確保が死活の問題であったことは想像にかたくない。この地区に人工の溜池が多数みられるのは先人の苦心の跡を物語るものである。たしかに稲作に適していない風土であるが、そのことが決してマイナスな面のみである訳ではない。収穫高においては他の肥沃な土地には劣ってはいるが、良質の米であるか否かはまた別の要因が作用しているようだ。このことに詳しくないが、どうやらこの地区の産出米は味の良さで知られているらしい。さらに八幡西区から筑豊にかけては我が国有数の炭田であった。瓜生英清氏(上津役小学校創立百周年記念誌「上津役周辺の地質」)によると、この石炭は新生代・第三紀に堆積した植物化石が炭化したものという。また上津役地区は地下およそ3000メートルに及ぶ第三紀の安定度の高い岩盤の上に位置しており、北部九州では最も安定した地質的条件を満たしていると氏は述べている。地震の被害を心配することがない風土であることを意味しているだろうことは、今も昔も心身の安定に寄与していると考えられる。風土に置いては他にふれなくてならないことがまだ数多くあげられるが、今回は時間もなく、慌ただしい記念誌発刊の準備に終始したためこれ以上の言及が出来ない。植物の地域特性を知る上でこの地域の植生図は重要なことであるが、筆者の力の範囲を越えており、将来、農業関係者の中からこの植生を示して下さる方が出てこられることを期待したい。ただ、櫨はこの地区によく見かける。黒田藩(江戸時代この地区はこの藩に属していた)の櫨実蝋生産は全国の八割に達していたことだけを指摘しておこう。
 次に上津役の歴史に移ろう。実のところこの地区の歴史はまだよく判っていない。例えば地名に見られる"松屋敷""養若""垣内""城ノ腰""鳥居ノ下"等はかつて城や屋敷、寺院があったことを示すものあろうが、特定できるものが地名以外に残されていない。また、地形から伺えるように、福智山々系の辺縁に位置することは、一定の支配地域の中で辺境に位置していたことを示す。
黒田藩に属していた時代には、明らかに南東の辺境である。また、さらに遡って、古代から中世にかけて多くの荘園を形成し、日本史に少なからず影を落としている宇佐八幡宮の直接の影響もほとんど見られない。宇佐一族は周防灘沿岸一帯の北部九州を支配していた豪族である。上津役から周防灘に達するには今日においても容易ではない。このように、この地区を地理上の位置が、歴史の表舞台に立つことを許さなかったといえるであろう。しかし、同じこの地形が道路(鉄道も含む)との関係では逆に深いつながりをもたらしている。太宰官道、長崎街道、200号線、山陽新幹線、直方道路がそれである。
太宰官道からみてみよう。聖徳太子の17条憲法、仏教の是認(縄文と弥生の文化闘争の終焉を意味する)を基礎として、我国で初めて律令国家が誕生する。律令国家の統治のために、九州には特別な出先機関として大宰府が置かれた。この大宰府と京を結ぶ道路が太宰官道である。門司に到着した官吏は次の駅(諸道には約20キロの間隔で駅がおかれた)を経由して大宰府に至ったと言われる。豊前社崎(門司)ー到津(小倉)ー独見(八幡東)ー夜久(上津役)ー鳴門(遠賀郡)ー津日(宗像郡)ー席打(糟屋郡)ー夷守(新宮)ー美野(香椎)ー久爾(筑紫郡)である。この経路は現在の鹿児島本線に相当するであろう。(その当時の海岸線は現状よりはるかに内陸に位置していることを付記する必要がある。)この経路の中の"夜久"が上津役と推測されているが、現在地は特定できない。
 次の長崎街道は江戸時代の豊前国小倉と幕府直轄地長崎を結んだ道路である。六ケ岳山系の南にある冷水峠を超えると遠賀平野につながる。原田、山家、内野、飯塚、木屋瀬、黒崎が宿場町であり、「筑前六宿」と称され、当時は殷賑をきわめた街道であった。上津役は木屋瀬と黒崎両宿の間に位置し、冷水峠を除くと最も起伏の多いところであったと言われる。この街道がそのままの道筋ではないが、現在の国道二〇〇号線に相当する。
山陽新幹線は単純な構想にもとづいている。小倉駅と博多駅をほぼ直線に結んだのである。当然、福智山々系をトンネルで繋がざるをない。地下水の水路を切断する。上津役地区は連日連夜の苦悩を強いられたのである。
また、直方道路は九州縦貫道のバイパスとして、またしても福智山々系辺縁沿いを通ることになった。このように奈良時代から今日まで、この地区と道路とのかかわりは功罪いずれにしても深いのである。歴史上の一大特徴と言わざるをえない。
 道路にはもう一本重要なものがある。上津役地区だけでなく北九州市そのものが地形的な制約をうけているが、それは東西を結ぶ交通網を確立することの難しさである。今まで述べてきたように、六ケ岳山系、福智山々系が東西に海岸線を圧迫する形で並立していると同じく、足立山々系が門司区を南北に分断しているため、北九州市は海岸線に沿ったベルト状の狭い平地が東西に延びた形にならざるをえないのである。東西を往復することが市民の生活である。
福岡市が同心円的な都市構造を形成しえることに比較すると、北九州市がかかえている都市としてのハンディキャプは小さくはない。上津役地区においても同じことが言える。海岸線へ向けて傾斜する扇状地上にこの地区があることは、東西に往来しえる道路がなければ人家は増えないことを意味する。その道路が馬場線である。昭和40年に完成している。この道路が出現して間もなく沿線に連日のように新しい家が建築されていった光景を、今も感慨深げに語る人が多い。ちなみに、西鉄小嶺自動車営業所の開設は昭和37年12月である。この道路だけの理由ではないが、北九州市が全国政令都市唯一の人口流出都市であるのに対し、この地区は年々人口が増加していることをつけ加えておこう。道路についての記述が長くなったが大宰府に関連してふれておかなければならないことがある。菅原道真についてである。道真は901年(延喜元年)に太宰権師(長官の意)として太宰府に赴任している。太宰府は政治・外交上において重要な機関ではあったが、太宰権師を初め府の高官は中央政界の政争に敗れた貴族の左遷官の対象と考えられる場合が多かった。道真もその一人である。道真の菅原氏は代々官人というひくい身分で、その氏は庶民的な土師氏(埴輪などの土器を作ることをつかさどった)だった。学問と人柄によって藤原氏をさしおいて高位にのぼった。不幸にも藤原氏のざん訴にあい、太宰府に左遷され、かの地で死ぬ(903年)。もし現世にあるならこのような代官こそふさわしいという庶民の願望と想像から生まれたのが天満宮である。
 上の原にある涼天満宮もその一つである。涼天満宮では毎年7月24、25日の両日祇園祭を行っているが、本来、天満宮と祇園祭は結びつかない。祇園祭はもともと京都の八坂神社の祭礼で、平安時代(869年)に全国に疫病が流行したため、これを八坂神社の祭神素戔鳴尊(すさのおのみこと)の祟りとして、防疫を祈ったことによるものである。この祭礼がなぜ涼天満宮で行われるようになったのであろうか。郷土史家の能美安男氏は境内に祀られている須賀神社の祭礼と結びついたのではないかと指摘されている。道真信仰はどこにいったのかと疑問になるが、戦前まで続いていた足水観音堂での子供たちだけの祭りである天神籠に生かされていた。
天満宮についてふれたが、この地区が同じく共有する重要な史跡として無量観音堂(足水観音堂と呼称されている)と、熊野神社がある。この二つの史跡は戦前・戦後を通じてこの地区の精神的な拠り所である。二つとも竹尾の城主麻生氏が祈願所として建立したものである。この麻生氏は上津役地区を直接支配した有力者として歴史に登場する最初の氏名である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の御家人として関東武士、宇都宮氏が北部九州へ下ってきたことが端緒である。宇都宮氏は遠賀川の河口にあって平氏の有力残党であった山鹿秀遠の没収地(山鹿荘)を所領とした。建久年間(1190〜99) 宇都宮朝網の養子となった宇都宮家政が山鹿荘を受け継ぎ山鹿氏を名乗った。家政の子時家のときに、次子小二郎兵衛尉資時に山鹿荘内の麻生荘・野面荘・上津役郷の三箇所の地頭代職を譲った。これが麻生氏の始まりである。
この麻生氏は豊臣秀吉が島津藩を征伐し九州を平定したときまでこの地区を支配していた。おおよそ1190年から1587年頃まで続いたことになる。麻生氏は秀吉に認められず大名になれないままこの地を去った。この地区はその後小早川氏を挟み、黒田藩に属したまま明治時代を迎えることになる。麻生氏がこの地区に残し、現在も維持されているのが足水観音堂と熊野神社である。
観音堂は天文年中(1532〜55)に石割谷の観音屋敷に建立された。その観音屋敷は直方道路建設で姿を消した。文化年中(1804〜18)に現在の位置に移され、本尊の聖観世音菩薩座像の修理が行われている。移転費用、修理費は決して小額ではなかったと考えられる。というのは文化年間の藩財政維持のために、小倉・福岡とも苦心惨憺な状態だった。農村は人口が減少し疲弊していた。農民の不満は爆発し、1803年小倉城下は訴願に押し寄せた農民であふれ騒擾寸前の状態ですらあったのである。このような時期に足水観音堂の移転事業が行われたことを考えると、観音堂に寄せられた信仰が如何に大きかったを示している。また、本堂は明治29年に中興され、大正年間に建替えられたが、その後老朽化しし三たび農事組合の協力で再建されている。このように観音堂を維持しようとする姿勢が江戸時代から今日まで貫かれていることは忘れてはならない。ところで観音堂信仰の対象ではあるが、本尊の聖観世音菩薩は弘法大師の作と言われているいるように真言宗である。真言宗と言うより弘法大師信仰と言ったほうがわかりやすい。さらに、観音堂とその周辺に帆柱新四国霊場の札所が集中している。第55番札所から第63番札所がそれである。
 熊野神社は天正年中(1573〜1591)に建立されている。この神社は上上津役の鎮守の氏神として親しまれ、現在も氏子が組織され、馬場、足水、町上津役地区が一体となって祭礼にあずかっている。